聖徳会

第25回 R・ニーバーの祈り 後編 ~開き直ったあとは~

人生は命を運ぶ軌跡…。

"運命"と"宿命"は、似て非なるものだ。私はこれを混同していたために混乱して迷子になっていた。しかし、"R・ニーバーの祈り"に出会ったことで、『この世にはどうにもできないことが存在する』ということを認めることができるようになった私は、"運と向き合う姿勢"が定まり、さらに"正しく開き直ること""時の果実を利用する"という"宿命"への対処法も見つけることができた。 そして、改めて"どうにかできる(かもしれない)こと"という視座から"運命"というものを見つめ直すことにした。

まず私は、"運命"というものを"可能性の畑"であり、"結果"とは、良くも悪くも可能性の畑からの"収穫物"なのだと考えることにした。その上で、『可能性の畑から(より多くの)良い収穫物を得る』という目的を達するにはどうすれば良いかを考えてみたのだが、そこには目的を達成するためにクリアすべきテーマがあった。

その①は、(結果という)収穫を得るには、まず(可能性の)畑が必要だということ。

その②は、(可能性の)畑には、その畑の土壌の質によって(良い作物が収穫できる)良い畑と、(悪い作物が収穫される)悪い畑とがあるということ。

そしてその③は、良くも悪くも(結果という)収穫物は、その畑に種を蒔き、そして育てるという作業過程がなくては得られないということ。

これらのテーマをクリアすることこそが"運命"というものに対する対処法なのだ。 そこで各テーマをクリアするためには何が必要となるのかを考えてみた。

①では、畑を手に入れるためには(未開の荒野に分け入って)開墾、開拓をせねばならない。そのためには、しっかりとした"目的意識"と、荒野に踏み出す"勇気"が必要となるだろう。

②では、せっかく開墾・開拓するならば、無駄骨を折らずに良い畑をより広く得られる場所を選びたい。そのためには、より多くの情報を集めて事前の調査を行い、しっかりとした知識を身につけなくてはならない。

③では、より多くの収穫を得るためには、そのための創意工夫と日常的、継続的な自助努力の必要性を再認識する。

可能性を開くためには、しっかりとした目的意識、そして未開の大地に足を踏み入れる勇気が必要だ。そして可能性を高め広げていくには知性が不可欠だ。質量ともに豊かな知識、しっかりとしたリサーチとプランニングが"可能性"を"実現性"に変えて行く。そして"実現性"を"現実"に変えられるのは、自分自身の行動以外の何者でもない。日々の営み、日常の中で、小さな創意と工夫を積み重ねていく自助努力こそが結果を生み出す最大の要素なのだ。

"運命"とは、自分で自分の命を運ぶということであり、人生とは自分が命を運ぶ軌跡である。そして、それはすべて自分自身が生み出す結果なのだ。"自分自身がすること"これこそが"運命"である。問題は"どうやって"その命を運ぶかなのである。"運"というものは、その作用が結果に影響を与える一つの要素である。だから、人が命を運ぶ過程"に"運"は無関係では有り得ない。

運命学は"運というもの"および、"運とのつきあいかた"を考える点で、人生に生かすことを目的としている。ゆえに、私の仕事は"運命学"によって、"より良い人生"を望む人のために貢献することだ。 しかし、人生において"結果"を出すことができるのは本人だけなのである。

だから、私の"役割"は、『人が命を運ぶ過程で、より上手に"運"とつきあえるように、情報として"運命学の知識"を必要とする人に提供することであり、そのために必要な知恵を蓄えることである。』 それならば、私にとって大切なことは、『自分の役割をしっかり果たせるように、自分にできる事を増やせるよう努力すること、そしてその時自分ができること(と思うことも含めて)を精一杯すること』だ。

考えが整理され、私が到達した結論は、以上のようなことだった。 自分がするべきことを明確に認識できたことで、私はようやくスランプ状態から脱出することができたのだった。

  目次へ戻る